zakuraでは2月19日(土)と20日(日)の2日間、山﨑慧一郎による写真展「ロカンタンに捧ぐ」を開催いたします。
独学で写真を学んだ後、ライフワークとして写真を撮り続けている山﨑慧一郎 。
タイトルやキャプションからもわかるように、独自の哲学的な考えから自身のスタイルを保持し活動を続けている。
山﨑の世に対する解釈や視点、方法は主観主義写真となりとても興味深い作品群となっております。
会場にて是非ご体感ください。皆様のご来場お待ちしております。
山﨑慧一郎 「ロカンタンに捧ぐ」
会期:2月19日(土)〜2/20(日)
時間:19日/11:00~21:00
20日/11:00~18:00
会場:zakura〒150-0033 東京都渋谷区桜丘町14-5-103
問い合わせ:info@zakura.tokyo
< 作品について >
はじめにタイトルをフランス語で Le Tombeau de Roquentin とつけ、それを日本語に意訳しました。tombeau( トンボー ) とは墓標という意味を持つほか、故人を追悼する器楽作品を示す音楽用語でもあり、主にバロックの時代にリュートやギター、テオルボといった楽器のために書かれました。アントワーヌ・ロカンタンはジャン=ポール・サルトルの小説『嘔吐』の主人公で、本展示は10点のモノクロ写真を組み、彼に捧げる現代的なトンボーに見立てたものです。
言語には二つの側面があります。ひとつはものを伝えること、もうひとつは認識そのものであること。私たちの眼の前に広がる世界は言葉に当てはめる都合のためにはじめから整理されているわけでなく、ひとは言語を持つことでそれを切り分け、意味に沿ってものを認識します。 しかし、同時にそれは翻って私たちの意識を縛る枷ともなり、切り取られた意味と意味との狭間に機微が忘れ去られてゆく怖さがある。これは視界を切り取る行為である写真にも同じことが言えます。
視覚は言語以上に強くものを伝え、写真はその力をもってジャーナリズムの一翼を担い、社会に寄与してきましたが、何もかもが極度に高速化した今日、それはひとに脊髄反射のような意思なき認識を押しつけ、知性と感性を貶めてはいないか、そんな恐れと疑いを抱いています。それは言語に関しロカンタンが見舞われた「吐き気」に通じるもので、作品制作を通してそれを問い深めることが私のライフワークです。
< プロフィール >
山﨑慧一郎
1979年生まれ。國學院大學文学部哲学科卒。
記号と認識をめぐる観点から2013年頃より写真を独学。小さなモノクロプリントを中心に制作している。現物主義、秘密主義を旨とし、プリント以外の形で作品を公開しない。
2020年11月個展「無言歌」南青山ナダール <web> https://keiichiroyamazaki.wixsite.com/blog
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